TQM/品質管理 こんな誤解をしていませんか? 第7回『顧客の言うことに対応しておけば,顧客満足が得られます』(その2) (2019-6-10)
2019.06.10
■市場原理に潜む危うさ
先週,「市場原理」について,基本的には正しいが,危うさがあると申し上げました.どのような意味でアブナイのか,どのような理由でそのようなことになるのか,少し紐解いてみたいと思います.
まずは,「本当のことを言っていないかもしれない」という危うさでしょうか.例えば,医療の例で挙げた「苦しい,殺してくれ!」です.最近人気の「チコちゃん」のエンディングで登場するカラス(?)のキョエが言う「バカー」は「大好きってことだよ」とのことです.私たちが,誰かに何かを望むとき,その期待や意図を正確に伝えることが難しいのは,よく経験することです.表明している背景を読むことが重要です.
「言うことが変わる」というのも,要求を聞く方としてはつらいところです.朝令暮改は日常茶飯,前言を簡単に翻し,ときに矛盾することを次々とおっしゃる方も少なからずいます.たぶん,正直なのでしょう.この世に普遍的に良いものなどあるはずもなく,ニーズを問われて,ある使用環境条件を想定したうえで,「こんなものが良いかな」と本気で思い,それを口にするということかもしれません.なかには,いろいろ見聞きするうちに自身の評価軸に変化が生じ,コトの良し悪しの評価基準を変えてのことかもしれません.これもまた,コロコロ変わるニーズの背景を読む必要があります.
「何を言っているのか分からない」というのも困ったものですが,よくあります.表現が抽象的すぎて,具体的にどのようなものか分かりにくいというのは解釈に困ります.「心地よい音が望みだ.しっとりとしていて,ワクワクするような」と言われて,あなたが音響技術者だとしてどうなさいますか.これはまさに感性品質を極めるという意義ある課題につながりそうです.
一緒に買い物に行ってなぜかへそを曲げて泣きじゃくる子供(孫)に「何がしたいの? 何が欲しいの?」と聞いて,まともな答えが返ってくると考える人は少ないでしょう.言動のすべてから斟酌するに違いありません.お客様が子供と一緒と言っては失礼ですが,似たような状況はまま見かけます.車や家の下調べに来た若い夫婦のなかには,相手をするセールス担当が出来た人でなければ務まらないような方々も時々いらっしゃいます.
「一部の顧客のニーズかもしれない」ということもあります.前々回の【テーマ1】のときに,金子先生が,ニーズの多様性,顧客の多様性に言及していました.誰かのニーズを聞いたとき,それがどれほどの量であるか気にする必要があります.その方も顧客には違いありませんが,あまりにも特殊なニーズであると,それに応えることが技術的・経済的に難しいことがあります.市場原理と言っても,市場は一様ではないことに留意しなければなりません.必要に応じてマーケットセグメントを定義し,意味のあるセグメントにだけ対応する必要があります.特殊な顧客に対応することは,その顧客の満足は得られるかもしれませんが,ターゲットにしている市場全体の顧客満足につながらないことにもなりかねません.
先週,いくつか例を挙げてご説明した,「ニーズそのものが社会正義ではない」ということもあります.公序良俗に反するとか,反倫理的,違法なニーズには,たとえ顧客が望んでいても応えていけないのは当然でしょう.
「ニーズとシーズ」という視点も重要と思います.前回の【テーマ2】のときに,顧客が「素人」であるがゆえに,ニーズとニーズ充足手段の関係についての理解が十分でないことに留意する必要があると申しました.だから,ニーズを実現する側からみれば,現代の技術をもってしては経済的にとても実現できないような法外なニーズを表明したり,あるいは逆に素人考えでできそうにないと勝手に考えて表明しなかったりすることが起こるという危うさです.ときに,矛盾するとしか考えられないニーズが表明されることがありますが,これは実現手段を考慮するから矛盾と思えることが多く,技術の進歩とともに解決される可能性が大です.その意味での法外とも思えるニーズを一蹴してしまうのでなく,この宇宙を支配する法則に反するものでない限り,そのような顧客ニーズがあることを認識しておく必要があると思います.
■市場原理の限界への挑戦
市場原理は,この社会に良いものや良い方法を広める一つの有力な方法です.その原理に危うさがあると上述しました.
「市場原理」は,経済原理,または他の利益誘導によって,自由な市場において自然淘汰により市場が望むものが優勢になっていくという原理です.顧客満足,顧客志向/顧客指向の正当性の根拠でもあります.
この原理によって,本当に良いものが優勢になっていくためには,購入者・顧客など市場における意思決定者の鑑識眼が重要な条件になります.ところが,とかく顧客というものは裸の王様であり,正しいものを選ぶとは限りません.公序良俗に反する製品を求める良からぬ市民が少なからずいることからも市場原理がいつでも最適とは言えません.市場原理のもう一つの弱点は,市場の意思が確かなものでなく,また変化するため,本当に良いものに落ち着くのに時間がかることがあることです.
そこで期待されるのは,たぶん「提供者の見識」です.「たぶん」と言ったのは,提供者の見識を信頼できない場合も多々あるからです.しかし,市場や顧客の真のニーズを斟酌する見識ある提供者がいれば,良いものが提供され,それを利用する者の鑑識眼が肥えてきて良いものが大勢を占めていくというポジティブ・サイクルが成立すると期待できます.この方法が成り立つためには,提供者の見識そのものが鍵です.短期的・狭視野で,人を騙してでも儲けようと考える提供者ではダメです.長い目で見て,見識ある顧客,市場に受け入れられなければその分野の発展はない,と理解し行動できる提供者が必要です.
その他には,「指針・基準」あるいはBOK(Body of Knowledge;知識体系)」などで誘導することがあります.国家標準,国際標準はその一つの形態です.さらには,これを一歩進めた方法として認証・認定制度があります.指針・基準の存在にとどめずに,それを基準として,公正・公平な評価能力のある者が評価して基準適合を公式に証明しようとする制度です.
もっと強力な方法が「法的規制」です.適合していなければ社会への提供が許されない,強制の評価制度です.これにより,邪悪の抑制,安全・安心の確保が可能となります.
社会全体の安全・安心の実現というものは,市場原理,経済合理性が適切に機能しにくいため,実は非常に難しいことです.
人間の活動というものが,十分な技術的知識を備えた気高い精神を有する者によってなされるものならば,規制などは必要ありません.しかし実際には,安全や信頼性に悪影響を与えうる人々が,そのことに無知・無関心であることが多く,啓発が必要です.たとえこれらの危険を承知していたとしても,人というものは,悲しいことに,自己の短期的な狭い視野での利益のために,他人や将来を犠牲にすることができる生物種でもあります.しかも,安全でないことの影響は大きく,また取り返しがつかないことも多々あります.自由・平等,そして単純な市場原理を基礎とする自然淘汰が,常に正義であるとは限らないのです.
この状況を克服する一つの有力な手だてが法的規制です.実際,世界的に見て,「安全」は法律,規制によって確保されてきました.安全は経済合理性と整合しにくいものです.安全はコスト高を招き売上げ増には結びつきにくいことが多いものです.短期的視野に立てば,安全をないがしろにした方が利益をあげやすくなります.提供者の見識に頼っていては消費者や社会・地球を保護することができないとき,法制化・規格化によって,安全をある程度確保することができます.
安全・安心に関わる規制には,正義の強制(無知蒙昧や経済至上主義への対抗,致命的事象防止の保証など),邪悪の阻止・抑制・抑止(罰・見せしめ・恥を通した抑止力),社会・国民に対する公式の能力証明・説明(権威者の“お墨付き”による安心感の付与)などの意義があります.
これら規制の基準になりうることが多く,また良いモノ・良い方法に統一・誘導し,社会的規制を与える規格・標準もまた,関係者への啓発という意味で非常に有効です.実際,安全・安心社会の実現のための標準化は,「いのち」に関わる健康・医療・福祉,食品,「社会インフラ」としての通信,輸送,サービス,「文化」としての教育,知識に関わる分野において必要であり,大きな社会的意義があります.
長くなりましたので,これくらいにします.顧客のニーズに応えること,あるいは市場原理は,基本的に正しいことです.しかしながら,そこには危うさがあり,また限界もあります.顧客志向を大原則としつつ,社会全体の最適化のための様々な工夫をすること,これが「真の顧客満足」です.それは無定見に顧客に迎合することでも,顧客の意向を無視することでもありません.こうしたことを4回にわたり,2つのテーマのもとに語ってきました.ご参考になれば幸いです.
(飯塚悦功)